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【はじめての転職】~陶酔庵J の~  -2-

 こんにちは、陶酔庵Jです。

 今回は、はじめて転職した時期のことです。

 

【転職1】

 

 勤めた会社の時期の思い出としては

 転職した先は、当時最先端の業界でした。

 勤めた会社の仕事といえば

 

 いきなり、大手通信機器メーカーへの出向でした。

 出向先は、一部上場の大手でしたが、メーカーとしての順位は5,6番目の企業で、田舎から出たことがなかった私にとっては、華やかな時期でした。

 職場の人達や街で見かける人達は、都会に暮らす”都会人”で、だいぶ尻込みしていました。

 最初の1ヶ月位は電車通勤にも慣れずアパートと勤務先の往復だけで、過ごしていましたが、職場の皆もそれぞれ地方から出てきている方も多く、馴染んでみれば楽しい職場でした。

 当時の住まいは、社宅という形で先輩と同じアパートに住んでいました。(今でいうルームシェアみたいな感じです。)

 アパートは2階建の2部屋でどちらも社宅で、1階に先輩一人、2階に先輩と私の二人という構成でしたが、下の階の先輩とはあまり交流はありませんでした。

 同室の先輩は、10歳くらい年上でしたが、気さくな方でしたので、同室でもあまり不都合はありませんでした。

 はじめのうちは、東京のことが本当によく分からず、多分同室の先輩によく飲みにつれてもらっていたんだと思います。

 よく言ったのは、会社の帰りに立ち寄れる”下北沢”でした。

 下北沢は気兼ねなく過ごせて大好きな街でした。

 さて、仕事はというと、出向先では、当時NTTが主体(発注者)となって大手通信機器メーカーが共同(競争)で開発に取り組みはじめたインターネット環境の構築に関わる仕事でした。

 通信のネットワークで世界中が繋がる(World Wide Web)と言う構想が造られ、INSやISDNの規格が決められた時期でした。

 まさに、今のインターネット時代のスタート地点に携われたのです。


 出向社員の身であり二十歳位の若造ながら、アセンブラー言語が得意だったので、そのプロジェクトのソフトウェア部隊で外注(フリーのプログラマー)の取りまとめ役を任せてもらい、ここでも少し有頂天になっていました。


 そこでは、C言語を学び、製品のデバッグなどで今では考えられない残業をこなし、納品まで立ち会う事ができました。


 今よりも、メモリ容量の少ないデバイスをいくつもいくつも使って出来上がったハードウェアは、基盤の数ばかり多いバカデカイものでした。


 そういう時期を経て、今のような高速通信のネットワークがあるので、ある意味、自分が携われたことに誇りを持っていつつ、出向元の会社に対して、自分の存在が不可欠ではないかと感じるようになっていました。

 今考えると、他の社員の皆さんも同じようにバリバリ貢献されていたと思いますが、自分は誰にも負けてないと思い込み、のぼせ上がっていましたね。


思い出すと、本当に恥ずかしいです。


 ただ、自分の実力は測れませんが、当時、取りまとめを担当していたフリーのプログラマーの皆さん(3人)から

 一緒に独立して、会社を作らないかとお誘いをいただき(のぼせ上がっていたわりにその時は勇気がなくお断りしてしまったのですが・・・)自分には力があるんだなと、思っていました。


 そんな感じでしたので、出向が終わり、一段落した機会に、会社との条件の食い違いを理由に、次の転職に向けて考え出したのです。


 次はなんと、ソフトウェアの開発ではない方向に行きたくなったんです。

 機械を相手にプログラミングして、プログラム通りに機械を動かす事が当たり前過ぎて、人との関わりがないんじやないか

 なんて、浅はかな事を考えはじめ(もっと別の考え方ができれば、その先に人との関わりを見出だせたのかもしれませんが)、人と直接関わる仕事、人に感謝される仕事がしたい、とか言ってましたね。


 そこで、探したのがイベントなどを手掛ける企業でした。当時、県内で博覧会の計画が発表されていて、そこに興味があったんです。

 ここまでが、私の有頂天時代です。


 2回目の転職先での思い出は、また次回。

 

 

 

 最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。